【甲子園優勝投手】〜魔球シンカー使い〜日大三高・吉永健太朗選手の現在

アマチュア野球
スポンサーリンク

吉永健太朗選手について

皆様は吉永健太朗選手をご存知でしょうか?

野球経験者なら聞き覚えがある方も多いのではないかと思います。吉永健太郎選手は、2011年の夏の甲子園の優勝投手です。代名詞ともいえる魔球「シンカー」を武器に日大三高のエースとして、メディアからも世間からも注目を浴びていました。

ドラフト候補として常に名前が挙がる選手でしたが、最終的にはプロ野球選手にはなっていません。

そんな吉永健太朗選手の高校時代の凄さ、そして高校卒業後から現在に至るまでについてまとめてみました。

高校時代

吉永健太朗選手が日大三高に入学した理由は、甲子園に行くためです。甲子園に行くためには、自身が投手として活躍するだけでなく打線の力も必要と考えていたようで、東京で強打といえば日大三高が有名であったため日大三高を進学先に選んだようです。

日大三高に入学後は、1年生の秋からベンチ入りをしています。1年生の秋の時点では、球速は135km前後でカーブやスライダーなどの変化球とのコンビネーションを駆使する投手でした。好投手ですが、この時点ではプロ注目の投手ではなかったようです。

その後、2年生の春に選抜甲子園に出場します。この選抜甲子園では、2年生ながら143kmを記録しました。球速は着実に成長している吉永健太朗選手でしたが、制球力に課題があったようです。2年生の夏までに制球の改善をしながらトレーニングを重ね、2年生夏には147kmまで球速を伸ばしました。

2年生の秋からはエースナンバーを背負い、秋の明治神宮野球大会で優勝を果たしています。

3年生の春には2年連続で選抜甲子園に出場し、ベスト4まで勝ち上がりました。

3年生の夏は、最速149kmを誇る大会屈指の好投手として注目されていましたが、夏の県予選では制球に苦しみ不調でした。同大会中になんとか復調、復活し甲子園への切符を掴み取りました。

甲子園では注目が集まる中で、復活した吉永健太朗選手率いる強打の日大三高は順当に勝ち上がり、甲子園で優勝を果たしました。この大会で吉永健太郎選手の投げる魔球「シンカー」が話題になりました。

YouTube 岡村村長の昭和野球塾様より引用

落差の大きい魔球「シンカー」と最速149kmのストレートを武器に、甲子園では通算9勝を挙げています。

夏の大会終了後には、AAAアジア野球選手権大会の日本代表に選出され、最優秀防御率賞を獲得しベストナインにも選ばれました

大学時代

高校で華々しい活躍をした吉永健太朗選手は、高卒でのプロ入りを期待されてきましたが、4年後のドラフト1位を目指して2012年春に早稲田大学へ進学しました。

東京六大学の強豪、早稲田大学で1年生の春リーグから早々にデビューを果たすと、いきなり4勝を挙げ、防御率1.25で最優秀とベストナインを獲得しました。

1年生の秋リーグは3勝(2敗)、防御率2.67とまずまずの活躍を見せ、2年生の秋リーグまでは防御率も3点台未満の成績を残しました。

しかし、その後の成績は下降線を辿ることとなります。

3年生の春リーグは防御率7.59、秋リーグは防御率10.80、4年生の春リーグは防御率5.40という成績でした。

大学通算成績は34試合登板、11勝10敗、防御率2.53ですが、11勝は全て1、2年生の時に上げた勝ち星で3、4年生時は1勝も上げることはできませんでした。

1年生の春から4勝を上げ、早くから活躍した吉永健太朗選手ですが、1年生の春からフォームに「違和感」を感じていたようです。フォームのバランスを崩し、球速は高校時代より遅くなっていました。

変わり果てた姿でイップスとの噂もありました。

YouTube kyo様より引用

社会人時代

苦しい大学自体を経て、吉永健太朗選手は早稲田大学卒業後、2016年から社会人野球の強豪JR東日本で投手として復活を目指しました。

1年目のオフには野手転向を勧められ、社会人では二刀流としてプレーすることとなりました。

しかし、2年目のオープン戦で右肩を故障しました。右肩の故障はなかなか癒えず、回復の見込みがないため、手術に踏み切りました。手術後、リハビリを経て球速は144kmまで戻りましたが、2019年に勇退という形で現役を退いています

現在

勇退後は社業に専念し、駅員としての仕事をしていた吉永健太朗選手。2022年にはスポーツ事業にも力を入れているパーソルキャリア株式会社へと転職しているようです。

吉永健太朗選手のInstagramを見ると、現在はスポーツチームの運営も行なっているようです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました